ガチャガチャ爆売れ日記② 「100円の夢」の就職求人、一世一代の大勝負!?
ガチャガチャビネネスを生業に32年が経ちました、日本ガチャガチャ協会を運営と築地ファクトリーの社長として、ガチャガチャカルチャーとビジネスをもっと拡大できないかと微力ながらサポートしています。今回はオノーちゃんがガチャガチャビジネスにどう出会ったかのお話です。
ガチャガチャ・ガチャポンラボ所長のオノーちゃん( @GachaOnoo )です。

株式会社YUJIN
100円の夢を追って:氷河期の転職活動
平成元年、私はプラスチックの原料を売る商社に新入社員として就職した。しかし、入社5年目を迎える頃には「どうしても玩具メーカーで働きたい」という思いが日に日に募るようになっていた。
そんなある日、就職雑誌の片隅に躍る、あるキャッチコピーが目に飛び込んできた。
「100円に夢かけませんか?」
その言葉を目にした瞬間、私の胸は確かに高鳴った。
時はバブルが弾けた直後の就職氷河期。大人が本気で忘れた夢を、わずか100円のコインに託すビジネス――。「なんてロマンのある仕事だろう!」と心が躍った。
ただ、「100円のコインビジネス」が具体的に何を指すのかは分からなかった。誌面には「ガチャガチャ」の文字など一切ない。それでも「玩具メーカーだし、とりあえず受けてみよう」という軽い気持ちで面接へと向かった。

YUJIN
即決された内定と、不穏な前置き
面接会場にいたライバルは5人ほど。なぜか私は速攻で内定をもらうことになった。その際、総務部長から告げられた言葉は、今でも忘れられない。
「小野尾くん、他が決まっていても行かないでね。また募集するの面倒だから……。あと、前任者が不祥事で辞めているので、そういうことが無いようにお願いします」
――不祥事!?
とても気になるワードだが、まぁ、その前任者が不祥事で辞めていなければ今の自分はここにいない。そう思えば感謝である。こうして1994年、私は「ユージン」の門を叩いた。
3名部署の自販機課
しかし、現実は甘くなかった。
当時のユージンは大手玩具メーカー「トミー」の子会社だった。聞こえはいいが、社内の空気はどこかどんよりと冷え切っている。平たく言えば、親会社からのリストラ組や出向組が漂わせる、独特のうらぶれた雰囲気が充満していたのだ。玩具業界のメインストリートから外れた日陰の場所。それが当時のユージンだった。
私が配属されたのは、「アミューズメント事業部 自販機課」。
自販機課と聞いて、「おっ、ガチャガチャの部署なんだ」と合点がいった。子どもの頃は「10円」の記憶しかなかったガチャガチャだが、私が知らない間に世間では100円へと進化していたのだ。
だが、配属初日に仕事場へ向かった私は、自分の目を疑うことになる。
課のメンバーは、上司が1人と、パートの女性が1人。そこに新入りの私を加えた、わずか3人だけ。これこそが、世界を回す一大産業を夢見る「課」の実態だった。

スリムボーイ形状試作
画期的な新筐体と、明かされた「崖っぷちの現実」
「いいか、これから次世代のガチャガチャマシンを大々的に拡大していくぞ!」
上司は私を前にして、鼻息荒く宣言した。
当時、ユージンでは新しいガチャガチャマシンの開発を進めており、製造は台湾の工場で行われていた。これまでの金属製の重々しいマシンとは異なり、100円と200円を簡単に切り替えられるプラスチック製の画期的な新筐体(のちの『スリムボーイ』だが、当時はまだ名前もなかった)。いよいよその試作機が出来上がってくるという、勝負のタイミングだったのだ。
上司の熱い言葉に、私も「よし、やってやるぞ」と転職組らしい希望を抱きかけた。――その直後である。
上司はふっと声を潜め、真顔でこう付け足した。
「……ま、小野尾くん。このマシンが売れなかったら、会社潰れるから」
耳を疑った。
威勢のいい号令の裏にあったのは、「背水の陣」どころか「倒産寸前」という崖っぷちの現実だったのだ。新入りにかける言葉としてはあまりにも重く、リアルすぎる通告。わずか3人しかいない自販機課の肩には、会社全体の運命がずっしりと乗っかっていた。
(もし、あの台湾工場から上がってくるマシンがコケたら、私の玩具メーカー人生は始まった瞬間に終わる……)
自販機課のこじまりとしたデスクで、私は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
だが、この「売れなきゃ倒産」という極限の状況から、日本のガチャガチャ史を塗り替える奇跡の狂騒曲が幕を開けることになる。100円玉に夢をかけるどころか、文字通り命をかける泥臭い日々が、ここから始まったのだ。
んじゃまた!!!
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